2.11 知識というフィクション

こんにちは。珠川幸です。
足を運んで頂き、有難うございます。
初めての方は0.ブログについてをご覧ください。

前回までのお話で、人類は認知革命、農業革命のおかげで、「時間」や「秩序」といったフィクションを手に入れましたとお話しました。

500年ほど前になると、また新しいフィクションを生み出します。それは「知らない」というフィクションです。

重要な疑問に関して、無知を公に認めることで、人々の思考は柔軟で探求的になり、近代科学が誕生します。これを科学革命といいます。

『進んで無知を認める意思があるため、近代科学は従来の知識の伝統のどれよりもダイナミックで、柔軟で、探求的になった。そのおかげで世界の仕組みを理解したり新しいテクノロジーを発明したりする私たちの能力が大幅に増大した。』
ーサピエンス全史(下)P.62 ー

僕たちは何気ない会話の中でも、知識や情報というものがあって、誰かが、それを所有してたり、生み出したりしている感覚を味わっています。

しかし本当は、私の知識、あなたの知識というものはありません。「知っている」「知らない」も利便上の境界線なのです。

学校の先生をやっていて言うのもなんですが、知識というものがあって、大人はそれを持っていて、子どもは持っていなくて、大人が知識というものを子どもに与えている。という構図自体が、このフィクションの賜物なのです。

たしかに、私の知識という概念があるから的確に伝えることができますし、このブログのように残すこともできます。

このブログも、僕の知識を共有しているように感じますが、本当は、何か固定化された知識の受け渡しをしている訳ではなく、ただ言葉があるだけで、その言葉をみて、別の人が何かインスピレーションをするだけなのです。そこには、情報という確固たる何かがあるわけではありません。

知識、情報という概念自体が、インスピレーションすらも所有しようとした人類が作ったフィクションなのです。

はてな?と思う人も多くいるかもしれませんが、ゆっくりと読み進めてみてください。いいインスピレーションが、きっとあります。

次回も楽しみにしていてください。

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